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2007年12月17日 (月)

冒険やスポーツではなく 愛妻の遺言 その約束を果たすためだけ のために 太平洋をヨットで渡った 八十一歳の畑下栄 あの海の男 今再び 私は熱く思い出した

NHK「心の時代」で、七十歳を越して、ヨットで太平洋を渡った村田和雄氏の話を聞いた。そして、思い出した。冒険でもなく、スポーツでもなく、アメリカから日本へ、ただ交通手段としてのヨットで、やはり、太平洋を渡って来た海の男がいたことを。以前の一番最初の私のホームページでも、その時の感動と共に書いた記憶があるが、このブログ上にも記しておきたくなり、調べていて、I'm Here!の素晴らしい海の香り漂うページに出あった。そこには、単なる新聞社などのニュース記録ではなく、あの、畑下栄氏と、出会い、彼の最後も確認した、海の女性の記録があった。以下に、勝手に転載させていただく。少しばかり、小型ヨットに乗ったりする、この私が、また思い出し、時折り、目を通したいと思ったからです。

Imhere1bnr1 「彼は 海へ帰った…」

畑下栄、81歳。壮絶な海の男だった。
去る7月4日、彼は自艇のヨットの中で遺体で発見された。
北緯33度44分、東経157度00分。広い太平洋の公海上で、操業していた海外巻網漁船が異常な動きのヨットに気づき調べてくれた結果だった。その後、彼の遺体とヨットは漁船と海上保安庁の巡視船の曳航によって、横浜港へと運ばれた。
死因を特定できないほど損傷の激しい御遺体に対面し、私はまた泣いた。出航前にあれほど泣いたというのに・・・。

不思議な縁で、私はここ数ヶ月、彼と行動を共にしていた。ヨット航海を応援していたわけではない。ただただ彼の身体や慣れない久々の日本の生活や煩雑な手続きなどの心配をしてのことだ。
杖をつき、階段の昇り降りも大変で、ヨットへもようやく這い上がるような体力だった。それでも「太平洋を渡って米国に帰らなあかん!」と言い張る彼。心配した多くの方たちが説得した。「そんな身体で太平洋を渡るのは無理だ」と。海上保安庁の方も立ち入り検査と称して、説得してくれた。しかし彼は、米国人であり、ヨットは米国籍。強制的な指導は全く出来なかった。身近にいた私はすっかり娘のようだった。切羽詰って懇願も泣きもなじりもした。でも「しようがない。行かねばならぬ。」結局、聞き入れてもらえなかった。
そして、彼は海へと帰っていった。

彼は移民の息子として米国で生まれた。幼少時に父親の病気のため、日本に帰国。父親は太平洋上の客船の中で病死した。父の故郷に戻った彼は、海軍、中学教師、マグロ船の船頭を務めた後、40歳過ぎに妻子と共に渡米。米国籍となり、西海岸で長年造園業を営んだ。
8年前、自らが運転していた車で交通事故を起こし、愛妻を亡くした。7年忌を済ました後、すべての財産を処分し、約12メートルのヨットを購入。艇名は奥様の旧姓にちなんで「MIYA」と名付けた。そして、米国の墓に納骨した妻の遺骨の一部と共に、そのヨットで妻の故郷の日本を目指した。
「私が死んだら長野のお父さんのお墓のそばに埋めてね」
の妻の遺言を果たすために・・・。
どうして彼がヨットを選んだのか。そんな疑問に彼はいつも笑って答えた。
「飛行機はよー、落ちるだろう。船は大丈夫だ。太平洋は庭みたいなもんだしな。」
米国サンディエゴを出航し、タヒチ、ハワイと航海を続け、日本にたどり着いたのは昨年の12月。御蔵島の沖で見張り不足の漁船と衝突し、ヨットは大破。彼も腕に傷を負い1カ月入院。その間に彼の体力は相当に衰えた。2月、私が初めて会った時、彼はほとんど歩けない状態だった。
それから海の男の「介護」の日々が始まった。
わがままで頑固。良く喧嘩もした。でも良く手をつないで笑いながら歩いた。身体は不自由でも彼の頭脳明晰さにはいつも感心させられ、また多くの話は愉快痛烈だった。
奥様の御遺骨を長野の地に納める時も随行した。彼の育った地、和歌山県那智勝浦町へも長距離ドライブで一緒に行き、多くの友人たちと楽しい時を過ごした。
しかし、海の仲間の同情だけで彼のそばにいたわけではない。彼のことは、日本の歴史が生み出した社会問題と、いつしか私は捉えていた。
多くの日系移民が遭遇する社会的問題を彼も抱えていた。生きる場と故郷の違い。望郷の念。変わりゆく故郷と日本人。迫り来る老いと福祉制度。息子との間に生じる言葉と文化の壁。心の根っこは日本、逞しい精神を養った米国、二国間の生き方のバランス。
「畑下さん、戸籍は日本にあるから二重国籍だよ。ちゃんと申請すれば日本人として日本に住めるよ。」
「あかんあかん。一度日本を捨てた人間がこんな身体になってまたお願いしますなんて、そんなこと迷惑だろう。あかんあかん。」
「じゃあ、アメリカ戻ってどうするの。」
「そうだなあ。わしの金じゃまともな暮らしは出来んからメキシコでも行くか。本当は、このまま海をずっと航海してたいんだがな。」
「航海は無理だよ、その身体じゃ。」
「なんでだよー。」
「だって・・・・」
「ほーら、また泣く。これだから女はあかんなあ。」
「だって・・・・」
「しょうがない。行くしかあるまい!行かねばならぬ!」
彼は日本を愛し、また米国も愛していた。しかし、その狭間である広い広い太平洋に自分の身の置き場を見出していた。
彼が亡くなってしまった現在も考えこんでしまう。どうすれば彼を止められたのだろうかと。

6月15日、皆の反対を押し切って、畑下栄さんは「MIYA」で神奈川県三浦市シーボニアマリーナをひっそりと出航した。
雨が降り、時折強い風が吹いていた。彼はほとんど無言だった。片手で簡単に挨拶をし、視界の悪い海に消えていった。
隠れて乗り込んでシージャックしようかとも考えた。ヨットを壊してやろうかとさえ思った。畑下さんの足を引っ掛けて怪我でもさせてやろうかと酷いことも頭をよぎった。でも・・・何も出来なかった。
泣いて見送るしか出来ない自分がくやしく、その心を解ってくれなかった畑下さんが憎らしかった。

7月11日。彼が無言の到着をした後、海上保安庁と御親戚の方々の御理解を得て、ヨットの検証をさせてもらった。
「公海上で発見された米国人米国船籍のため、捜査権なし。事件性もないので事故の調査はしない」と海上保安庁の方から説明されたが、海難は残された者達に長年の苦しみを否応なく与える。それを少しでも消したかった。
漂流が長かったためかヨットの帆関連の損傷はあったが、エンジンや発電機、電気関係の故障はなかった。何かあってもエンジンで充分に対処出来る状態だった。
海図を調べた。彼はマグロ船の船頭を長年務めていたので、海図記入はしっかりする方だった。しかし、これは本当に残念だが、全く海図への記入はなかった。食事の後も見当たらなかった。出航後簡単に食べれるようにと積み込んだパンや果物もほとんど手がつけられていなかった。彼は出航後、相当
早い時期に船室で動けなくなったか亡くなった可能性が高い事がわかった。波の揺れで身体を支えきれずに倒れ、どこかを強打したのかもしれない。高齢のために海に体力が持たなかったのかもしれない。
しかし、もう、これ以上の推測は無理である。

ヨットと彼を発見してくれた「第18常磐丸」の皆様の判断力行動力、その素晴らしいシーマンシップには頭があがらない。
前代未聞の長距離の曳航をして下さった第2管区海保の皆様、それを引き継いで下さった第3管区海保の皆様。本当にありがとうございました。
横浜に入港し巡視船「いず」から長音一声と乗組員の皆様の敬礼で見送られた畑下栄さん。海の男としてのこれほどまでにない最期だった。
「こんなに日本に迷惑をかけてすまんすまん」と平謝りをしているだろうが・・・。

畑下さん、今日の風はどうですか?!波は良い加減ですか?!
魚は釣れてますか?!御飯ちゃんと食べてくださいね!
海は気持ちいいよねー!でっかいしさー!自由だしさー!
今日も御安航してくださいね!
畑下さんの大好きだったかみちゃまも毎日心配してるよ!
大好きだよー!畑下さん!

年月日の入った、以下のニュース記事を付け加えておきます。

(2005年)7月4日、宮城県金華山沖東南東約1400キロの太平洋上で、米国から単独ヨット「MIYA」で来日した畑下栄さん(81)が遭難したという情報があり、第2管区海上保安本部が巡視船を出して確認を急いでいる。
 畑下さんの支援者らによると、4日午後3時半ごろ、宮城県金華山沖の東南東1400キロの海上で、マストが折れたヨットが漂流しているのを操業中の漁船が発見したという。船体に「MIYA」と書かれていることから、畑下さんのものと判断した。ヨット内には1人が倒れ、呼び掛けにも反応がないという。
 畑下さんは1970年に米国へ移住。亡妻の遺骨を祖国の日本に埋葬するため昨年(2004年)、米サンディエゴからヨットで太平洋を単独で横断し、2004年12月に静岡市の清水港に到着した。入港直前に漁船と衝突、腕にけがをして一時入院した後、今年(2005年)4月に長野県の妻の実家で納骨を済ませた。三浦市でヨットを修理し、米国へ向かう準備をしていた。ヨット仲間らは畑下さんの体力を考えて、思いとどまるよう説得していたという。

私は、畑下栄氏が、納骨のために長野県の妻の実家の墓を訪れているシーンを確か、長野県の民放のTVニュース(夕方)で観て、太平洋を一人で渡って来た彼のことを知り、その動機にすごい衝撃を受けたのだった。その時の感動は今も薄れることはありません。そして、夏の始まる頃のある朝、新聞で、私は彼の死を知り、「やっぱりなー…」と、思ったのだった。。

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