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2008年6月

2008年6月30日 (月)

国家とは何か 組織とは何か

41ppjjxtfal_sl500_aa240_1 昨夜に録画しておいたBSハイビジョン特集 ただ一人“おい”と呼べる君へ城山三郎 亡き妻への遺稿~を、今日の午前中に観た。

直木賞受賞の城山三郎氏に対しては、「落日燃ゆ」など、多くの作品を書き、社会派のお堅い作家とのイメージを私は持っていた。しかし、肝臓がん末期の病で倒れた妻を亡くしてからの城山氏は、その妻、容子の、ロシア語での頭文字一字を、原稿やノートなどのあちこちに書き残していた。亡くなった妻を思い出すたびに、この一字を記したんだろうな~。

城山氏の学生時代。ある日、その彼が休館日の図書館の前で出会ったのが、後に妻となる容子さんだった。そして、青春の破局。だが後にまた偶然の再会。そして結婚。さらに、二人の子どもがそれぞれに独立した後の、年老いてからの二人だけの第二の人生でのこと。これらを、城山氏は、妻を亡くした晩年のライフワークとして、妻を書くことに専念していた。

こうした夫婦愛の様子を、城山氏自身が書き遺し、「そうか、もう君はいないのか」の本として出版された。そこに書かれたことを軸に、今回の番組では、再現ドラマを交え、多くの人々の証言や実像映像なども加え、一時間五十分の特集番組としていた。最後まで飽きさせない内容だった。

私が、この番組から受けた感動は多い。その中から、特に深く感じた一点だけを、下に記しておきたい。それは、1990年(平成2年)冬に、文化庁から紫綬褒章(しじゅほうしょう)の内示の電話をもらう。しかし、「役所に査定されたくない、国家や役所に口封じされたくない」との理由から、彼は断っている。「どうして!」と、問う妻に、彼は、こう語っている。「読者と、お前と、子どもたち、それが俺の勲章だ。それ以外のものは、俺にはいらんのだ!」。

17歳で自ら志願した。海軍特別幹部練習生。国家を憂いて、身を投じたそこでの体験は、彼の若い純粋な思いを木っ端微塵に打ち砕くものだった。そこでの彼の体験が、彼の、後の作品の中核となり、国家とは何か、組織とは何かを問い続けて行くことになる。その思いの一つの現れが、紫綬褒章を断わることでもあったのだ。

2002年、個人情報保護法案で、国会が紛糾した時、言論の自由が脅かされるのでは、と危惧して、その阻止に立ち上がり、その反対集会で、彼は自分の上に広がる「空の高さ、青空の高さ」と、いう表現で、個人の自由の大切さを訴えていた。軍隊は階級組織である。個人の自由や尊厳を潰して、組織は自分の頭の上にのしかかる。そんな組織を彼は、一人ひとりの一つの命の上に、置きたくはなかったのだ。う~む。

この城山三郎氏には、学生時代に出会い、終生大切にして来た言葉があった。イタリヤの経済学者が好んで用いた言葉、「静かに行くものは健やかに行く   健やかに行くものは遠くまで行く」の言葉だったという。城山氏は、国家とは何か、組織とは何かを問い続けながら、どのくらい遠くまで行けたのだろうか。彼の作品の中に、その答えが、きっとあるに違いない。

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育ての親への感謝 カッコウの声

P1000170h1 昨夜は激しい雨だったが、今朝の伊那高原は雨も止み、天気予報では晴れに向かうらしい。そんな朝の空気の中に、今朝もカッコウの声が響いている。私は、「托卵」で、小鳥のコヨシキリなどに育てられるカッコウのことを知ってから、カッコウの声を聞くたびに、育ててもらった、育ての親への感謝の鳴き声にも聞こえ、響いてくるから不思議だ。

しかし、このカッコウ、時々「カッカッカッ、コ、コ、コ、コッ」と、とてつもなく大きな声で、まるでふざけているかのような鳴き声を出し、最後にやや声量を下げて「カッコー、カッコー」と、とても響くよい音色の鳴き声を出す。その生い立ちといい、鳴き声と言い、おもしろいやつだなー。

さて、今朝八時に伊那を出発したトラビスジャパンの高速バスで妻は、京都の実家へ向かった。京都植物園近くに住む八十八歳になる母親のところへ向かったのだ。今週は、豊科シオン幼稚園の方は、実習生が三名入り、第一週は、特に幼稚園の行事もないので、一週間ほどだが、妻にはゆったりと親孝行の時を持ってもらおうと思っている。十二時半頃には京都駅に到着する予定である。

この前までは、伊那バスを利用していたが、今回は三女が、ついこの前に、友だち数人と京都旅行した時に利用したトラビスジャパンの高速バスを利用することにした。料金も安いし、京都駅まで行くし、断然、伊那バスよりトラビスジャパンの方が良いことが分かったからだ。

P1000150h 伊那バスは、早朝の六時過ぎの出発で、降ろされる場所も京都市内には違いないが、駅からも遠い、さびしい場所らしい。それでいて片道4,400円。それに対し、トラビスジャパンは、朝の八時と、ゆとりある朝のスタートで、なおかつ到着時間も、伊那バスとほぼ同じ。それでいて、トラビスジャパンは片道2,900円と、伊那バスに比べ、片道1,500円も安い。

まあ、競争の時代であり、バス会社も大変とは思うが、利用する側からすれば、出発時間、降ろす場所、料金、客への対応など、全て、トラビスジャパンは、伊那バスに、勝っている。高速道で伊那から京都へ行くなら、トラビスジャパンを選ぶのが賢いと言える。

さて、八十八歳になり、ますます小柄になった京都の母に、大きく育ててもらった妻には、あのカッコウの感謝の鳴き声に負けないよう、良き親孝行の時と、してもらいたいと思う。

注) 写真は、コヨシキリに育てられるカッコウの雛。YAMA-KEI FIELD BOOKS 15 「野鳥」より。

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2008年6月29日 (日)

アメリカ土産は 「食前の祈り」

8329posters1 日曜日の礼拝を終えて今、私は事務室に一人です。教会二階に下宿している松本大学短期部一年の次男が、昨夜は、夕食を食べていなくて、「腹がへった」と言うので、妻は今、買い物に行き、伊那の保育園で保育士をしている三女は、二階の部屋に行き、次男に手伝ってもらい、パソコンで音楽のダビングをしているようです。

今日の安曇野地方は、梅雨のシトシト雨が降り続いています。これで、教会の駐車場の周囲にこの春に、植樹したロビンの木々も、たっぷり水を得て、何とか根付いてくれそうで、一安心です。

今日の礼拝で奏楽を担当してくれたM姉の長女は、アメリカの大学で学んでいますが、アメリカで、ようやく車の免許をとり、今回は車を購入してやるために、母親のM姉が、アメリカへ行っていました。

その時のお土産だとのことで、礼拝後に、しゃれたバスタオルなどを頂いてしまった。彼女は二年前のクリスマスに洗礼を受けていて、音大を出ていることもあり、奏楽担当者の一人として加わってもらっています。その彼女がニコニコして、アメリカの食卓での話をしてくれました。

やはり、アメリカは、キリスト教国なんですね、招かれた夕食の時に、みんなが食卓の席につき、こうして家族みんなが、両手を広げて手を結び、食前の祈りをするんですよ!」。

「それはよかった。Mさんの家でも、やってみたらどうです。あなたが、聖書を読んで、家族のためにも祈ればいいんですよ。家族もきっと、喜んで協力してくれると思いますよ」と私。

しかし、もう一つのお土産、GHIRARDELLIの商標の入ったチョコレートは、苦味が強いなー。ようやく今、妻が帰って来て、これから家族四人で昼食です。我が家は手はつなぎませんが、やっぱり、食前の感謝の祈りは欠かしません。しかし、今日の私の昼食はカップヌードルかよー。まいった、まいった。ん!、他にもあったか。そうだろうなー。

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人生の歌語り

07071 尿意で目が覚め、トイレに行った。居間の時計を見上げると、四時前だった。半分眠った状態で、そのまま布団にもぐり込んで、習慣的になっているNHKラジオのスイッチを入れ、イヤホーンを耳にした。今朝は、…特集・わが人生の歌語り〕第39回 作家 五木寛之…を聞き始めた。

しかし、私は半眠り状態だったので、アンカーと五木氏の会話の内容はよく分からなかった。だが、青春の古本屋街を歩く内容の歌のメロディーが、何となく郷愁を呼ぶ感じのもので、「いいな~」と思っていた。

少しウトウトして、私は夢をみていた。何処かの薄暗い喫茶店の入り口付近で、店の奥から出て来た、メガネをかけた五木寛之氏と目が合った。五木氏は一段高い通路にいたので、低い位置に立っていた私は、五木氏を見上げる形になった。

その五木氏の背後斜め上方にスピーカーがあり、そこから、音楽が流れていた。私が、先ほど聞いた、五木氏作詞の歌らしかった。「いい歌ですねー」と、私は五木氏に語りかけていた。「いやー、青春の歌ってのは、いいもんですね…」と、五木氏は応え、私の横を通り過ぎて行った。

ここで、耳からイヤホーンが外れて、その硬い部分が、寝返りをした顔に当たり、再び目が覚めた。もう一度耳にイヤホーンを入れると、…十円玉硬貨を、汗ばむほどに手のひらに握りしめて、ビルの四階まで階段を上がり、そこの天井の低い映画館で、長時間立ち見で観ていた時代のことを、五木氏が静かに語っていた。

「その当時、三十円あれば、今のクリームパンのようなのが二個買えた時代でした。しかし、空腹は我慢しても、映画の方を選び、その映画館まで、一時間以上もかけて歩き、そのビルに着くとエレベーターもない時代ですから、四階まで階段をのぼりましたよ…、そして、そのうちに自分も…、との夢もありましたよ」。「…私も、後期高齢者になり、健康面でもいろいろ問題をかかえる歳になりました…」こんな会話もあった。このあたりで、私は完全に目が覚めていた。

こうして、淡々と、自分の青春時代を振り返って語る話を聞くのは、しみじみとしてよいものである。彼は、早稲田の学生だった時、授業料も払えず、また日々の暮らしにも困り、病院に血を売っていた時代もあり、ろくなものを食べていないから、何回も行くうちに、血が薄いからと、断られたこともあったと、五木氏が本に書いていたのを、私は読んだ記憶がある。

また、中国大陸では、ロシア兵に、病弱だった母親を、寝ていた布団ごと、まだ少年だった五木氏の目の前で、家の縁側の下へ放り出され、結果的に殺されてしまった話も、読んだことがある。

五木氏に限らず、戦争時代をくぐりぬけて来た人々の青春時代の話は、高齢になった今だからこそ、語れることなんだなーと思う…。あの「蛍の墓」の著者である野坂氏もそうだ。そんな一人ひとりの青春の日々の生活の背後に流れていた、その時代の流行歌は、五木氏が語るように、それを聞いた一人ひとりの、人生の歌となっているんだなー…。

さて、私たち家族は、これから安曇野にある教会&幼稚園の、日曜礼拝へ向かいます。君は、今日の午前中を、何をして過ごしますか?。もし、予定がなかったら、君も来ないか!。そして、今の人生に光を灯す賛美歌を、一緒にうたいませんか。

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2008年6月28日 (土)

高村智恵子の求めた 本当の空

P1000150h 今朝四時からのNHK「心の時代」はおもしろかった。臨済宗福聚寺住職で、芥川賞作家でもある玄侑宗久氏(げんゆう そうきゅう1956年生まれ)が、「私という呪縛」と題して語っていた。これは、この6月1日に、福島県 二本松での集いで、講演したものらしい。この講演の題に示されているように、「私」とは何か?。これがテーマだった。

P1000152h 彼が、この講演で出した結論から言うと、周囲の状況によって、六道輪廻の教えにあるように、あっちへ、こっちへと、周囲の状況によって変わる存在が人間であり、これが本当の私だと言いきれるような存在など、ありはしない、そんな存在は幻想に過ぎない。と、まあ、こうなるらしい。以下は、この講演の要約というか、福島県二本松の聴衆の笑い声と一緒になって、大笑いしたりして聴いた私のメモである。

後に三歳年上の彫刻家、高村光太郎と結婚する智恵子は、日本女子大学在学中に油絵に興味を持ち、卒業後に、当時としては珍しい女流洋画家への道を進んでいる。

P1000154h 1886年(明治19年)生まれの彼女は、西洋の思想にも触れ、「日本の因習は、人間が作ったものだから、当然変えてもよいもの」と考え、白いキャンパスに向かい、本当の自分を、そこに描こうとした。

しかし、「これが、危なっかしい考えで、智恵子には難しかった」と、玄侑氏は、語る。「だって、日本には、人間という文字があるように、人の間に生きるのが人間でしょう、一人では生きられないのが、人という字なんですよ…」、と。

41ywvfqq52l_sl500_aa240_1 智恵子は、白いキャンパスの前で、本当の自分が見つからず、絵が描けなくなってしまう。そんな智恵子はやがて、実家の破産で故郷さえ失う。そうした彼女の生涯のポイントを語りながら、玄侑氏は、精神的にも肉体的にも、弱り果て、自殺未遂までして、ついには入院。その病院での智恵子について、次のように語る。

彼女は、その病院で、白いキャンパスではなく、すでに色も素材も決まっている、目の前にある具体的な相手である紙に向き合い、その紙を切ったり貼ったり、折ったりの紙絵作品に没頭し、多くの作品をのこしている。もうこれは、人生と同じで、いろんな人と人との組み合わせと同じで、人間関係そのもののパッチワークですから、真っ白なキャンパスの前に、本当の自分を描くなんて、構えなくてもよいわけですよ。と、まあこのようなことを玄侑氏は語っていた。

また、高村光太郎著の「智恵子抄」の中から、「智恵子は東京に空が無いといふ。ほんとうの空が見たいといふ。」の言葉を引き合いに、この「本当の空」と「本当の自分」は、智恵子の中で重なるが、それは彼女が探し求めただけの幻想で終ったと、玄侑氏は語った。

P1000157h そして、最後に、「私たちは、周囲の状況に応じて変わる、日本人の持つ、人間の多様性を大切にしたい」と語り、「どんな空にも対応できる、全天候型の人間として、人生を楽しみましょう!」と、呼びかけて、この玄侑宗久氏の講演は終わっていた。ユモアーがあり、人間的なあたたかさもあり、とてもおもしろく、ひきつけられて聴けた講演だった。う~む。

この講演で、聖書的には、個人とか私の言葉の語源は、仮面を意味する「ペルソナ」であり、さらに深めれば、「神の欠片'(かけら)」である。と彼は語っていた。そして、聖書のエデンの園についても、どんな文脈の中であったか忘れたが、少し触れていた。

P1000161h 彼が、どの程度聖書に向き合ったかは知らないが、私から一言いわせてもらえば、この世のどんな周囲の状況にも左右されない、本当の「私」を持ち、その魂の自由と、神の正義を生きぬき、私たちのためにも、玄侑氏の言う六道輪廻以外の、救いの道を切り開いてくれた方がいるということです。そうです、最初のクリスマスの夜に誕生された方です。

しかし、きっと玄侑宗久氏も、日本人の持つ、大らかな人間の多様性を語りつつ、仏教が説く六道輪廻からの救いとして、浄土真宗で言う、阿弥陀様などによって、救いの道があることを、きっと仏教から学んでいるんだろうな~。でも、それを言うと、坊さん説教になっちゃうから、避けたんだろうなー。まあ、しかし、近頃にない、おもしろい講演でした。

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2008年6月27日 (金)

「野鳥」の本が 届いた日

P1000159h 今日の安曇野地方の日中は、青空も広がる天候となり、自由遊びを終えた園児たちと、近くの神社境内へ散歩に出ました。大きな樹々に囲まれた静かな広場で遊び、帰りは行きと異なる裏道を通って、あちこちの庭や畑などに咲く初夏の花々にも目をやり、楽しい散歩の一時となりました。

P1000158h 園に帰ると、もう十二時半近くになっていました。野外へ出ると、時間がたつのを忘れてしまいます。さっそく園児たちは昼食の準備。私はファックスで送られていた、三件の文面を読んだ。一件は教会関係のものでした。その一つ、信徒の友の「日毎の糧」に載せる、豊科教会の祈りの課題を三点に絞り、八十字以内にまとめて、Eメールで、編集部宛に送信しました。締め切りが迫っていたようです。

P1000165h このFAXを送ってくれた編集部のKさんは、以前に豊科教会に来られたこともある方です。今回の件は、信徒の友編集部より、少し前に返信用ハガキで連絡を受けて、確かそのハガキの返信部分に、私は書き込んだまでは覚えているのですが、ポストに入れたかどうかの記憶がなく、どうも、乱雑な事務室の書類に紛れて、私が紛失してしまったようです。

お帰りの会では、今日で実習を終える学生とのお別れ会を行ないました。出会いがあれば別れがあることは知っていても、四週間を共に過ごした園児たちにとっても、実習生にとっても、ちょっぴりさびしさを覚える瞬間でした。

51a0dt14yzl_sl500_aa240_1 伊那高原の自宅へ帰ると、YAMA-KEI FIELD BOOKS 15 「野鳥」の本が届いていました。さっそく、今朝と、その前日の朝に、教会&幼稚園の庭でカメラに収めた二羽の野鳥名を調べてもみました。白と黒の小鳥はすぐに「ハクセキレイ」であることがわかりました。

しかし、もう一羽の方が分からずに苦労しましたが、この本を推薦してくれた山口の下松愛隣教会の吉田向学牧師のヒント、鳥の鳴き声を思い出し、確認して、「カワラヒワ」であることが判明。鳥の種類名がわかっただけなのに、何だか、自然界の家族が増えたような喜びに満たされるから不思議です。またオスとメスによって羽の模様が異なるらしい。

P1000170h あちこちを夢中で見ていて、妻も呼んで、私が大笑いをしてしまったのが、小さな小鳥「コヨシキリ」に育てられるカッコウの雛の写真でした。これは、さっそくインターネットでも調べましたが、「托卵」によるものらしい。今の季節、ここ伊那高原の朝に、そして昼に、必ず響いて来る鳴き声のカッコウたちは、こうして成長した鳥だったんだなー。良い本を推薦してくれた向学氏に感謝!。

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やっぱり夏は ○ ○ だな~

P1000144ah 今朝も教会&幼稚園の庭に、前日朝に見かけた小鳥が七時半過ぎに姿を現した。今日は、ややピンボケの写真になってしまったが、こうして毎朝、アップで小鳥の姿を見られるのは楽しいものである。

ついこの前から、カメラと一緒に、三十数年以前に購入した八倍のとても古い双眼鏡も一緒にバックに入れて持ち歩いているが、バードウオッチングに興味が出て来た。まあ、いつまで続くか分からないが、小鳥の姿や表情はいいものである。

P1000136h 聖書にも、「野の花を見よ、空の鳥を見よ」と、記されている。小さな草花が、小鳥たちが生かされているこの青い水の惑星で、私たち人間も生かされているんだな~。

今日も暑くなりそうである。今事務室の外へ目をやると、幼稚園児たちが、教諭と実習生と一緒に、ミニ菜園に、小さなバケツやジョロに水道水を入れて運んでいる。

P1000147h もう十数年以上前になるだろうか、季節は七月の夏休み前頃だったろうか、砂場へ水を運んだりして、たっぷり遊んだ朝の自由遊びを終えた後、三歳児の男の子が、水道のところで手を洗いながら、「やっぱりなつは、みずだな~」と一言。

その当時のビールのコマーシャルから影響を受けた言葉とは感じたが、とても感情がこもっていて、近くにいたクラス担任の先生と私は、声を出して笑ってしまったのだった。私にとっても、やっぱり夏は水の中に潜ったり、泳いだりしてあそぶこと、そして今年は琵琶湖でのヨットかな~、そして、その後は、やっぱりよく冷えたビールかな~。

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「奇跡の豚」に 学べ

昨日の朝日新聞を広げていたら、大きな豚の写真が目に入った。…「奇跡の豚」公開…のタイトルがあった。中国四川大地震で倒壊した家屋から36日ぶりに救出された「奇跡の豚」と記されていた。

地震前には150キロほどあった体重は、救出時には50キロまで落ち込んでいたらしい。さっそく、インターネット検索に「奇跡の豚」と入力して、さらに調べてみると、アサヒ・コムのページに、6月26日の朝日新聞記事より詳しい、以下の記事があった。

Tky2008062402761成都=小林哲】中国・四川大地震で倒壊した農家から、地震から36日後に1頭の豚が奇跡的に救助された。150キロあった体重は50キロまで減ったものの、雨水などで命をつないだらしい。住民から「豚の英雄だ」「引き取って飼いたい」といった声が出ている。

 現地紙の成都商報によると、成都の北約50キロの彭州市竜門山地区で17日午後、倒壊家屋を消毒しようとしていた兵士が、がれきの下の約50センチのすき間に豚が閉じ込められているのを見つけた。

 栄養失調で足元がふらついていたが、飼い主の農夫らがエサや水を与えると喜んで食べた。体脂肪をたっぷり蓄えていたことや、狭い空間でじっとして体力の消耗が防げたこと、地震後にたびたび降った雨で飲料水に困らなかったことなどが幸いしたらしい。

 飼い主の農夫は「感動して涙が出た」と話しているものの、自宅も倒壊した状態で飼い続けるのは難しいため、処分を考えると話していた。住民からは「生命の奇跡だ」「代わりに飼いたい」といった声が出ていたが、最終的には成都市内の博物館に引き取られた」。

飼い主から買い取った博物館では、死ぬまで飼い続けると、話しているという。よかった、よかった。人間は、何でも殺して食べるからなー。この豚だけは食べないで、長生きさせてやってほしい。

何はともあれ、せっかく助かったいのちなのに、人間に食べられなくてよかった、よかった。しかし、飽食の人間連中の間では、ダイエットに関するノウハウが、騒がれているが。ダイエットの一番の方法は、「食べないこと」の一言に尽きる。きわめてシンプルなのだ。

このことは、私自身、今年の三月に「痛風」が、初めて発症し、体重を落とすことを決意。今までの早食い、腹いっぱい食べ尽くし、飲料水のがぶ飲みを改めた。その結果、最高時、86キロだった体重は、短期間で80キロを下まわり、現在は78キロ前後で落ち着いている。サウナで汗を流した後で量ると、75キロの時もある。

特に無理をしているわけではない。普通に三度の食事をしている。ただ、腹六分目ほどにして、どうしても食べたくなったら、もう一度食べればよいと、自分に言い聞かせて箸を、一度置く。すると、五分もたてば、もう満腹の感じになり、体も快調である。当初家族は、「リバウンドが恐い!」と、笑って見ていたが、何の、もう三か月も続いているし、自分では、ごく自然な自信がある。まあ、確かに、まだデブではあるが…。

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2008年6月26日 (木)

安曇野のど真ん中  田園散歩

今朝は、年少組のIちゃんの神戸に住んでいるおじいちゃんが一緒に幼稚園に来て、朝の自由遊びを、手にしたビデオで、うれしそうに撮影していた。みんなで、讃美歌をうたい、ダンスも披露した。この七十歳を過ぎたおじいちゃんにとって、Iちゃんは初孫らしい。

P1000124h その後、陽が射して来た庭で、マラソンをしてから、みんなで野外教室に出た。今日は安曇野の中心部に広がる田園に出た。北からの風が爽やかで、とても気持ち良かった。だいぶ気温が上がっていたので、私は黄色のTシャツに着替えて、カメラも持って出かけた。

P1000129ah 麦畑に寄って、麦藁を少しもらい、園に帰って、みんなでハサミを使い、木陰でストローを作った。長いのや短いのや、いろいろなのが三本ぐらいずつ出来た。それを昼食の時に使って、コップの中の麦茶を飲んだ。年少のSくんが、「このむぎのストローでのむと、むぎのあじがするね」と言った。麦茶だから当然なのだが、麦の茎のストローを使って飲むと、一段とおいしく感じたのだろう。「うん、うん」とうなずいて、みんなニッコリ。

P1000127ah放課後は、明日で四週間の長い実習を終える学生に、実習記録の内容についてアドバイスして、私の幼稚園業務も終了。今日は園児たちと長い距離を走ったり歩いたりで、昼ごろからの気温の暑さも加わり、私は少々疲れてしまった。

P1000131h お帰りの会で私は、「園から帰って、お昼寝をしている人、手をあげて」と、園児たちに聞いてみたら、ほとんどの子が手をあげた。やっぱりなー。でも、一人ひとり、みんな少しずつ逞しくなってきたなー。そんな一日の幼稚園での業を終えて今、私は、これから四週間分の実習記録に、もう一度目を通して、園としてのまとめの助言や評価を、記入しなければならない。

来週からは、また男子生徒一名を含む三名の短大生が実習に入る。また今日、穂高東中学校の教師から電話が入り、来月の16日から三日間、職場体験実習で、数名の中学生を、お願いしたいとの依頼を受けた。そうかー、その頃には、豊科プールもオープンしているから、園児たちと一緒に、水泳教室に参加してもらおう。

もう少しして、午後五時を回ってから、私はいつもの「ほりで~湯」へ行き、サウナと露天風呂で汗を流す予定である。夕方になり、やや強い風が出てきている。ほとんど痛風も治まっているし、今日は、夕食に一本だけでいいからビールでも飲もうかなー。妻がなんて言うかなー。

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昨夜読んだ本  そして今朝見た小鳥

P1000119ah 安曇野にある教会&幼稚園に到着し、朝八時過ぎ、事務室の南側の窓をいっぱいに開けると、窓の外に小鳥たちの姿があった。すぐに手元のカメラを向けた。ズームレバーを引いて、ピントを合わせるのが難しい。鳥の姿が画面から消えてしまう。

P1000120ah シャッターを半押しにして、ようやくピントが合う。動きの止まった瞬間をとらえて、何とか、小鳥たち二羽を撮影することが出来た。私が室内にいたのと、窓からは斜め向こうの位置に鳥たちが来ていたのがよかったようだ。鳥の種類名は、まだわからない。山口の吉田向学氏が推薦してくれた、注文してある野鳥図鑑(山渓)の本が届いたら、さっそく調べてみたい。

今日の安曇野は薄曇りの天候である。昨日までは半袖姿でいたが、今日はやや厚手の長そでシャツを着て、首にはバンダナを巻いている。やや気温は低いが爽やかな空気が窓から流れ込んでいる。

41itwfe5ul_sl500_aa240_1 昨日は、図書館の新刊本コーナーで目に入っためぐみ手帳」横田滋、横田早紀江著(光文社)を借りて来た。それを、私は昨夜の深夜までかかって、左ページの行動メモはとばして、右ページだけを、全て読み終えた。日本の政治外交は、どうしてこうも弱腰なのだろうか。本「キムの十字架」にあったような、過去に朝鮮半島から多くの人々を、日本軍が拉致して来て、炭鉱などで強制労働させたり、殺したりした歴史を持っている、その後ろめたさがあり、その謝罪や補償を十分に行ってこなかったためなのだろうか…。

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2008年6月25日 (水)

КАТЮША カチューシャ

カチューシャ
訳詞者 関 鑑子・丘灯至夫
  
りんごの花ほころび
川面(かわも)にかすみたち
君なき里にも
春はしのびよりぬ
 
岸辺に立ちてうたう
カチューシャの歌
春風やさしく吹き
夢が湧くみ空よ

カチューシャの歌声
はるかに丘を越え
今なお君をたずねて
やさしその歌声
 
りんごの花ほころび
川面にかすみたち
君なき里にも
春はしのびよりぬ

P1000100h 今日の伊那高原は、雲は多いものの青空がのぞく、まずまずの晴天だった。今日もベランダに布団を干してから、カメラを首に下げて、妻と三峰川へ散歩に出た。その帰りに、夏のTシャツを買い、図書館へも寄ることにしていた。

P1000103h ゆっくりと歩く三峰川沿いの道や中洲の風景は、もうすっかり初夏の装いだった。しかし、秋を代表するススキの白い穂も風に揺れていて、自然というのは、いつも次の季節への準備もしているものなんだな~と、ちょっと不思議な気持ちになった。

P1000102h 私の口に、自然と出たのは、あのロシア民謡と呼んでいいのだろうか、「カチューシャ」だった。もちろん、今の季節は初夏なので、川に霞がかかったり、りんごの花がほころんだり、春風がやさしく吹いていたりするわけではないが、愛犬たちが全ていなくなった今、この思い出の川沿いの道にも、2008年の夏が、やって来たんだな~。と言った、ちょっと切ない感情を交えながら、このややさびしいメロディーの歌を口ずさんでいる私でした。

P1000101h 家に帰って、この「カチューシャ」をインターネットで調べてみたら、ロシア語が左に、そして右に並べて、直訳的な日本語訳を載せているページがあり、以下に、そこからお借りしたのを、ここに転載させていただきました。ロシア文化やロシア語に通じた方のページのようでしたが、連絡先が分からないページだったので、勝手に転載させていただきました。

カチューシャ

リンゴとナシが花咲いていた
霧が川面を漂いだした
カチューシャは岸へと出かけていた
高くけわしい岸へと

歌いながら出かけていた
ステップの青灰色の鷲の歌を
愛していた人の歌を
手紙を大切にしまっておいていた人の歌を

ああ、歌よ、娘の歌よ
輝く太陽の後を飛べ
そして遠い国境地帯の兵士に
カチューシャからよろしく伝えよ

純朴な娘を思い出させよ
彼女が歌っているように聞こえさせよ
故郷の大地を守らせよ
カチューシャは愛を守るだろう

リンゴとナシが花咲いていた
霧が川面を漂いだした
カチューシャは岸へと出かけていた
高くけわしい岸へと

P1000104h そして、この訳をされた方の、この歌の背景などの解説によると、どうやらこの歌は第二次大戦中につくられたらしく、元のロシア語の歌詞は、戦争に行った人への歌になっているようです。この方の、「やはり日本語版の切ない雰囲気が人々の心をとらえているのだと思います」の解説は、私も、その通りだなーと思う。

P1000108h 初恋の人がいなくなってしまった、美しい故郷の自然…。そこに漂う、切ないさびしさ、そんな思いがしみじみと伝わってくる歌です。題名の「カチューシャ」とは、一般的な女性名「エカチェリーナ」の愛称だそうです。

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マザーテレサと靴屋のマルチン

200510182357081 昨夜のBSJで、映画「マザーテレサ」を観た。マザーテレサについては何冊もの本を読んでいたし、その信仰と働きは知っているつもりだった。しかし、改めて感動させられた映画だった。その信仰も働きにおいても、テレサは偉大な人であったことに間違いはない。

この映画を通して感じたことは、テレサは、組織を作ることを、極力嫌っていたということである。徹底して、シンプルを求めた人だったんだなー、との思いです。シンプルとは、助けを必要としている人々に、出来ること、その小さなことに、大きな愛を込めて行なうことでした。一人ひとりの、このシンプルな行いの輪が、広がることのみを求めていたように感じる。

ある時、そんなテレサのもとへ英国から一人の若い女性が、働きたいとやって来るが、彼女は過労で倒れてしまう。もう無理をせずに英国へ帰りなさいとテレサは言う。そして、今後は祈りを持って、私たちの働きを支援してほしいと励ます。事実テレサは、法的な申請その他で、政治権力組織などの壁の前で困難に直面した時、その英国女性に電話を入れ、「助けて欲しい、天国を揺るがす祈りを、あなたにもお願いしたい」と、端的に短く伝える場面があった。じつに印象的でした。

バチカンのローマ法王が、「何か私に出来ることがあるか」とテレサに聞く場面があった。テレサは、「いいえ、もう申請書の許可をいただきました」と答える。法王は、「それ以外に私に出来ることは」と、さらにテレサに言う。テレサは、「このバチカンの中に、助けを必要としている人たちの施設を…」と答える。このローマ法王のもとへ来る途中の道端にも、助けを必要としている多くの人々がいたのを、テレサは目にしていたのです。

News200712011 最後にもう一つ、カルカッタの道端に倒れている老人に目をやり近づくテレサに、その老人は、「あなたは誰を探しているのか」と聞く。すると、テレサは「主です」と答える。「どうして、あなたは、その方を探しているのですか」とさらに老人は聞く。すると、テレサは、「主がおられないと、私は虚しいからです」と答える。私は、この場面をみながら、トルストイの「靴屋のマルチン」を、思い起こしていた。

しかし、「その主に出会ったのか」との問いに、テレサは、小さく首を振って「私にはわかりません」と答えている。自分の行いが、愛のわざであるのか、あったのかは、主が決められることなのだから…。また、年老いて行くテレサに周囲の人々が「休息を…」と言うと、テレサはニッコリ笑い、「やがて私には永遠の休息が待っていますから…」と答えていた。マザーテレサは、正に祈りと信仰の人だったんだなー。う~む。

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2008年6月24日 (火)

自分の過去に学ぶ 新しい気づきと対面

今日の伊那高原は晴天でした。ベランダに布団を干し、カメラを首から下げての散歩から戻り、ブログに写真を載せてから、ベランダに日陰を作り、ほぼ一日、昼食やパソコンなどの他は、安楽椅子に腰掛けて読書をした。三冊の本を、交互に読んだ。

一冊は図書館から借りていた、古いアクションもの「名の無い男大藪春彦著。そして、手塚治虫傑作選「家族」(祥伝社新書)、これは、家族をテーマにした短編集のマンガ本です。そして三冊目は、だいぶ以前にも読んだ、日野原重明著「出会いに学び、老いに成長する」(講談社α文庫)でした。

51chsa9xbgl_sl500_aa240_1 この三冊目の本に「子どもは大人から、生徒は先生から学んで成長していくと誰もが思っている。しかし、よく考えてみると、大人になった人、老人になった人は、誰からまなぶのか」とあった。

さらに続けて「亡くなった先輩や師から学ぶこともあろう。教室で学んだことも少なくないだろう。だが、忘れてはならないこと、それは自分の過去に学ぶということである。自分の足跡は、自分が歩いている間は自分には見えない」。

25674411それは、ある年月をおいて、人生をある程度経験した者が、静かに自己を振り返った時に見えるもの。その時、自分の足跡の意味するものがよみがえって、新しい気づきとなって私たちと対面する」。このように書かれていた。

そして、それを示唆する読みものとして、1988年、米国の作家ロバート・フルガムが書いた「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」のあの有名な冒頭の箇条書きを紹介していた。

51d5098a3hl_sl500_aa240_1 そして、牧師だった、お父さんの教会の日曜幼稚園で、学んだ時の自分自身を振り返りつつ、日野原重明氏(1911年山口県生まれ、京大医学部大学院卒、聖路加国際病院医師)は、「人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく、日曜幼稚園の砂場に埋まっていた」という、ロバート・フルガムの言葉に触れ、その通りであると語っている。

日野原重明氏がこの本を書かれたのは、八十四歳の時であり、2008年の現在は九十七歳である。そして、元気にご活躍されている。「過去に学ぶ」。この言葉が、今日の私の心には、とても深く沁み込む言葉となりました。

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新しい相棒と 散歩に出ました

P1000085ah 「相棒」とは、駕籠(かご)などを、棒を使って一緒に担いだりするところから来ている字体を持つ言葉のようだ。安曇野や伊那高原での、二十年近い歳月は、正に犬たちを相棒とした、散歩の日々であった。

その最後の相棒を喪ってからの私は、散歩に出る意欲を失っていた。しかし、ビールをグビグビ飲んでばかりいて、散歩に出ないでいたら、やっぱり右足の親指付け根に痛風が再発してしまった。

P1000089ah しかし、そんな私に、犬にかわる新しい相棒が出来た。その名は、ルミックスくん。中型ながら、18倍以上の望遠能力や、一センチの接近撮影も出来る黒色のカメラくんである。まあ、犬に比べれば、ものたらないが、だんだん慣れて、それなりに楽しい散歩の相棒になってくれそうな気がしている。

P1000090ah 今日は家の近所の散歩コースを四十分ほど歩いてきた。痛風の痛みもほぼ消えたが、二日間、右足親指をかばう不自然な歩き方をしていたため、右足ふくらはぎの筋肉が張ってしまい、むしろその部分が痛んだ。しかし、ルミックスくんのおかげで、それなりに楽しいさんぽでした。

P1000093h 途中でいつも出会っていた二頭の犬たちは、いつも一緒だった黒くてデカイ犬はどうしたんだ、「 ? ? ? ?」といった感じで、私の方をにらんでいた。

カメラを首からさげていると、どうしても樹の梢の方に目が行く。目が疲れるほどに、あちこちに鋭い目線を走らせることになる。まあ、普段はパソコンや読書などで、近い距離ばかりに焦点を合わせている目には、バランスがとれて、視力が向上するかもしれない。

P1000095h 時々、樹の切り株や草原の上や、ゴルフ場のベンチに腰を下ろして休息しながらの散歩である。遠方の景色に目をやったり、空を見上げたり、標高八百五十メートルほどの高原散歩コースである。

P1000098ah 山口下松愛隣教会の吉田向学牧師がよこしたメールで励ましてくれた、「鳥や蝶の写真を…」の言葉が頭にあったが、今日の散歩では、偶然にも、その蝶とジョウビタキらしい鳥の写真が撮れた。他にもいろいろな鳥の姿にも出会えた。これからも、この俺の散歩の相棒としてよろしくたのむぜ、あの愛犬のリーと同じ黒色をしたルミックスくん。

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共に生きた ハスキー犬 に感謝

Inu2171h 朝日新聞のBe紙面からだったろうか、妻がハスキー犬に関する記事を切り抜いてパソコンの横に置いてあった。私に見せようととっておいてくれたようだ。今朝、乱雑に積み上げてあった本をどかした時に、それに気づき、その記事を読んで、私が安曇野に来て、初めて出会った、あのハスキー犬のジョンを懐かしく思い出した。

あのハスキー犬のジョンとは十二年間と少しを、家族や園児たちと、様々な感動を共にして過ごした犬だった。私はああした野性味の強い犬が大好きだった。安曇野で、大自然の風の中を、園児たちと自由に走り回り、冬には犬ぞりも楽しませてもらった。

あの当時に、幼稚園でジョンと共に生活した子どもたちは、きっと今でも覚えているだろうし、私と同じで、ハスキー犬のこうした記事などを目にすることがあれば、様々な思い出が甦るに違いない。

この前、穂高にある「みさわ動物病院」へ、行った時に、「大変だったけどハスキー犬が、一番つき合いやすかったなー、今度また飼うとするなら、ハスキー犬がいいなー」と、私が言った時、獣医師に、「もう、日本にはハスキー犬はいないですよ」と言われてしまった。

確かにハスキー犬は、本来、日本のようなところで、ペットとして飼われるような犬ではなかったのかもしれない。しかし、私は、自分の生涯で、このハスキー犬に出会え、共に生活できたことは、素晴らしい経験だった。今も、「ぼくと出合ってくれてありがとう」と、あのハスキー犬のジョンに心から感謝している。もちろん他のラブラドール犬たちにも同様である。

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自然は 見て たのしむものではない

51xmhraffml_sl500_aa240_1 昨日は、伊那中央病院、待合所である廊下のベンチに座り、朝方に三十分ほど、昼から一時間と少し、それと玄関ホールで会計と処方箋をもらうまでの少しの時間に、もって行った、新潮文庫 Northern Lights ノーザンライツ 星野道夫著を読んでいた。

アメリカ最後の手つかずの自然が残る、アラスカ北東部に位置する壮大な原野は、太古の昔から変わることなくオオカミがさまよい、数十万頭ににもおよぶカリブーの出産地でもあり、かって、アイゼンハワー大統領が、未来の世代のために、このままで残そうと野性保護区に指定した場所であるらしい。

ところが、そこの近くの海に油田が発見され、油田開発という問題が起こり、賛成派と反対派の論争が起こる。当然、そこに暮らすグッチンインディアンの人々も、その論争に巻き込まれる。

そこで、私が「う~む…」となったのは、グッチンゲンインディアンの人々の、「ちょっと待ってくれ、おれたちの思いは、あなたたちの考えている自然保護とは少し違うんだ。おれたちは季節と共に通り過ぎてゆくカリブーを殺し、カリブーと共に生きている。自然は見て楽しむものでなく、おれたちの存在そのものなんだ」との叫びだった。

経済優先の油田開発も白人視点。そして、自然保護運動も、白人連中の視点からのものだったのだ。グッチンゲンインディアンの人々の、「この自然は、おれたちの存在、そのものなんだ」との叫びは重いと思う。この地球上の、北極熊やオオカミや他のあらゆる生き物たちの声、「ちょっとまってくれ、お前たち人間は、この地球をどうしようとしてるんだ!。この地球は、大自然は、おれたちの存在そのものなんだ!」との叫びをも代弁しているように感じて、私は強い衝撃を受けていた。

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2008年6月23日 (月)

カメラを首に 一人で散歩

P1000068h ここのところビールを飲む機会が増えていたが、やっぱり痛風の炎症が再発してしまい、今朝は右足の親指付け根の左に張り出した部分が梅干大に、まるで梅干のように色づいて炎症をおこし、歩くと痛む。

尿酸値を下げる薬は、毎朝飲んでいたのだが、こうした炎症が起こったときの飲み薬とシップ薬は無くなっていたので、九時前に伊那中央病院へ行った。

P1000070h 最初の発症の時は、親指の捻挫か剥離骨折かもしれないと自分で思い込んでいたので、レントゲンも撮ってもらったが、血液検査の結果尿酸値が、7.4ほどでやや高めだった。薬を飲み始めて十日後は、4.4に下がり、治癒したかに思われた。

P1000072h ところが、犬との長距離の散歩をすると、時々炎症があったが、その時は炎症をおさえる飲み薬とシップ薬ですぐに痛みは消えていた。

この病院は紹介状が必要で、また予約制であり、整形外科の待合室は、すごい人数だった。看護婦さんに言われ、私は昼の十二時頃に、再度来ることにして、一旦家に帰ろうと思った。家から車で五分ほどの近い病院である。

P1000074h 運動靴を履いた右足をやや引きずるようにしながら駐車場へ戻った。青空が広がり、暑くなっていた。病院の南側は、犬たちと時々散歩した場所である。そうかー、犬はみなんいなくなってしまったが、一人で散歩してから帰ろうかなー、そう考えた私は、車の中に置いていたカメラを首に下げて、病院南側の田んぼ地帯へ出た。

P1000075h 最後の犬となった、ラブラドール犬のリーが死んでからは、何となく虚しくなり、庭に来る小鳥たちを眺めていて、今までの小型カメラとは別に、少し望遠のきくカメラが欲しくなり、インターネット通販で、価格比較を見たりして、18倍以上の望遠撮影も出来る、LUMIXFZ18というのを購入していた。

P1000076h しかし、小鳥の撮影は、望遠のきくカメラを持ったからと言って、すぐに撮影できるものではないことが、購入してみて直ぐにわかった。鳥はめまぐるしく移動しまくる。いつもカメラをかまえて待っているわけにもいかない。

チャンスだと思っても、ピントが合わなかったり、角度がダメだったりで、これはもうあきらめて、直に眺めるだけでよいと悟って、鳥の撮影はやめにした。

P1000077h そのカメラを首に下げて、やや右足の親指をかばう歩き方で、私は一人で三十分ほど田園の中を散歩して、目にとまったものにカメラを向けてシャッターを押した。「カシャ」と鳴る電子音が、何となくうれしい。

病院南側の道路を挟んですぐの所に、稲田の田んぼにかこまれる形で、そこだけ小さな畑がある。農作物の周囲に、四季折々の花が咲き乱れている畑だった。この春先には、畑の西側に、スノーフレークの花が並んで咲いていた。

P1000082h その散歩を終えて、一汗かいて、その畑の横へ帰ってくると、軽自動車が、その畑の横にとまり、農家の人らしい服装のおじさんが、おりた。そして、急ぎ足で畑の奥へ行く姿に出会った。

「やー!、いつもこの畑の周りの花を見せてもらってます。犬がいたころに、時々、そして今は、痛風の薬をもらいに来る時に…」。「それで、この西側に春に咲いていたスノードロップだったかなー、いや、スノーフレークだったなー、あの花が私は好きで…」

P1000083h 「そうですかー、私は花の名前は知りませんが、家のおばさまが、花が好きで、花の名前なんか良く知っていて、家の周りにあった花をこっちにも移植して…」

そんな会話のついでというか、私の目的だったことを口にした。スノーフレークの花の株を、来春に少し譲ってくれないかと頼んだのだ。すると、「どうぞ、どうぞ、何株でも、私はたいがい午前中には、ここへ来ますから…、そうだね、春に咲いたときの方が、どの花かはっきりするしね…」。

Snowflake1h 「やーうれしいなー、そしたら来年の春にもらいに来ます」。「どうーぞ、いない時には、自由に何株でも、持って行ってぐたさい…」。と、まあ許可をもらってしまったのだ。(左の写真が、そのスノーフレーク)。来年の春が、今から楽しみである。

確か去年の春だったが、やはり近所から移植したのだが、場所が悪かったのか、我が家の庭の芝やクローバー、その他の雑草と共に、私が刈り取ってしまったのか、その姿が消えてしまっていたのだ。さて、十一時半を回っている。そろそろ病院へ行くことにしよう。帰りに市街へ出てヤマダ電機で、カメラの附属のメモリーカードを購入しようと思う。画素数の関係で、何枚か撮ると、すぐ容量不足のメッセージが出てしまうからだ。説明書をもう一度良く読む必要もありそうだ。

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さびしい夢

06086 明け方に寂しい夢をみた。込み入った路地裏を私は一人で歩いていた。車などは入り込めない、ゆるやかな傾斜の坂になった、その石畳の道路は、あちこちで行き止まりになっている個所もあった。夕暮れの時間だったろうか、風景はモノクロで静かだった。私以外に誰の姿もなかった。

ふと足元に、黒の大きなラブラドール犬がいた。私の飼っていたリーによく似ていたが、よく見ると、違う犬であることがわかった。私が呼べば、私について来る雰囲気だった。

しかし、私は、それをしなかった。やがて振り返ると、その犬は坂の上の突き当りの家の石造りの縦長の木戸の前に寝そべっていた。そして私の方を、チラリと見たが、すぐに視線をそらしてしまった。

(あー、あの家の犬なんだなー)と思った。でも、呼べば、私のところへ来て、私についてくるんだろうなー…。と、そんなことを考えた。しかし、この前亡くした、私の愛犬のリーではないもんなー。そして次の私は何故かバイクに乗っていた。そのバイクはエンジンをかける時に、足で強く踏み込むキック式のものだった。

私は右足で強くキックして、右手首を回転させてアクセルを上げた。バイクのごう音が路地に響いた。その時、走り出した私の後ろで、あの犬が一声大きく吠えた。リーの声のようにも思えた!。そして目が覚めていた。少し明るくなってきたベランダに出て、私はしみじみと声を殺して泣いていた。次々と熱いものが頬を流れ落ちた。

しかし、雨のあがった、薄曇りの中に青空も広がり、薄日が射し来た。庭に目をやると、緑の色を濃くして、大きく茂ったミニ菜園のトマトなどが目に入った。また、上空を横切る鳥たちの姿も目に入った。そして、すぐに私は元気をとりもどしていた。

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2008年6月22日 (日)

聖書 「カナのけっこんしき」

礼拝前に、十字架の塔の下から、幼子たちがロープを引き、チャペルの鐘の音が小雨の落ちてくる安曇野の空に響き渡った。さあ、みんなで讃美歌をうたい、祈り、聖書の言葉に聞く礼拝開始を知らせる「こどもらの鐘」の音です。

P1000067h 今日の礼拝では、ヨハネ福音書「カナでの婚礼」の箇所を、私は語った。私たちの日常での生活で、不測の事態も起こる。そんな時も、あきらめたり、投げ出したりせずに、人間の領域を、遥かに超えた、天からの救いの手を、信じて、人事を尽くして天命を待つ者でありたい。希望を捨ててはいけない。

神の時が来たならば、事態は一変する。忠実に言われた通り、運んで来て注ぎ入れた水は、水がめの中で、今まで味わったこともない素晴らしいぶどう酒となって、大きな石の水がめ六つをなみなみと満たした。

教会の庭で、枯れそうになっていたロビンは、天よりの恵みの雨を待っていたに違いない。そして、神の時を得て、このことに気づいた人間の手によって水が与えられ、そして、さらに梅雨の雨を受けています。

この前まで、人前に出ることも、友だちと一緒に席につくことも出来なかった三歳児の女の子Nちゃんも、今日の礼拝では、三十名を越す多くの人たちの前に、一人で出て来て、両手を合わせて、「てんのおとうさま、きょうは、カナのけっこんしきのおはなしがきけて、ありがとうごさいました、このかんしゃとおいのりを イエスさまのおなまえによって…」と、お祈りが出来ました。

今までのNちゃんのことを知る者にとって、驚くべきことでした。神の時を得たのです。聖書の言葉に聞き、備え、神の時を信じて待ち、行動するものでありたい。

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