逃避行 リックサックの中の小さな命
今朝の安曇野地方は、冷え込みは厳しいものの、明るい太陽が昇っています。ロッキーは昨夜体重を計ったら16キロありました。やはり重くなったとは感じていましたが、成長の早さに驚きます。力もついてきて、幼稚園の幼子たちに体当たりすると、大きな子でも転んでしまうので注意が必要です。
今朝も、園児たちが走る園庭マラソンコースのカーブで、年長組の女の子が後ろから駆けてきた来たロッキーと接触して、雪解けで凍った氷の上に転倒して、泣いてしまいました。その子に駆け寄ったロッキーは、自分のしたことが分かっているのか、その子の顔をペロペロなめて、その子は泣き笑いになってしまいました。
そして、泣きながらもすぐ起き上がって、「ロッキー!」と名前を呼んで、また一緒に走っています。手袋をしていなかった手が痛いのです。でも、ロッキーが大好きな子です。
今朝のNHKラジオ「心の時代」では、新田次郎の長女(咲子さん)の話を聞きました。私は「聖職の碑」を書いた作家新田次郎は知っていたし、本も読み、映画も観た。しかし、彼の家族については今まで、全く知りませんでした。
「聖職の碑」(せいしょくのいしぶみ)は、中央アルプスの木曽駒ヶ岳における山岳遭難事故を題材とした山岳小説で、1913年(大正2年)に、私の母校でもある長野県中箕輪高等小学校(現・同県上伊那箕輪町立箕輪中学校)の学校行事として実施された木曽駒ヶ岳集団登山における気象遭難事故を題材に、極限状態での師弟愛を描き、「生きること」「愛すること」の意味を問いかけた作品として知られている。私もこの学校登山をしました。また校庭の隅には、今も、その遭難碑が建っています。
今朝のラジオで、その新田氏の妻、藤原ていは、長女(咲子1カ月)をリックサックに入れて背負い、長男5歳と次男2歳を連れて、満洲の地から、約1年をかけて、日本へ帰還する過酷な運命にあったことを知った。その体験を記した、藤原てい著「流れる星は生きている」の本の存在も初めて知った。約一年ほどは、リックサックに入っていた長女咲子さんは、何とか生き延びたものの、帰国後の小学校三年生までは、栄養失調などの過酷な成育歴から、言葉が出なかったという。
そして、母親もまた帰国後、約3年間をベットで過ごす事になった。夫の新田次郎は、満洲での気象観測などの任務が解かれてから帰国している。そうだったかー。この長女の咲子さん(1945年7月生まれ)もまた、父親と母親について記した二冊の本を出していることも知った。
私は1944年6月生まれである。その私は、特に戦争の記憶も心の傷も負っていはいない。しかし、私より一歳年下の彼女は、その時の、リックサックの紐の間から、夜間の逃避行も多かったのだろう、夜空に見た北極星や、白い紐の記憶が今も彼女を苦しめているという。そんな生後一カ月から一歳頃までの記憶は、後に聞いた母の話の影響であり、本人の記憶であろうはずがないと、人々から言われる気がして、信じてもらえないと、今まで黙っていたらしい。
しかし、ある時、図書館でいろいろ調べたところ、過酷な経験の記憶は、乳児期から幼少期のものであっても残るとの文献があり、胸の苦しみがいくぶんやわらいでいるという。そして、今も、時折り、白い紐が首を締め付ける苦しい夢をみて目が覚めるという。
幼児期の体験を軽く見てはいけないのだ。豊科シオン幼稚園に身を置く私としては、心して教育にあたらなければならない。そして、子育ての中にある若い父母も同様である。心の傷は幼子であっても大人であっても生涯に渡って残るのだ。たとえ赤ちゃんであっても。
夜などは別として、大切な幼児期のほとんどをリックサックの中で過ごし、豆を煮た汁やその辺に生えている雑草を煮た汁などで命をつないだ咲子さん。母親は過酷な逃避行と食糧事情で母乳は、全く出なかったのだ。そして、日本へ帰国した幼児期の三年間ほども、寝た切りの母親の近くへは、ほとんど行けず、窓の外の無花果の木に登り、そこから青白い母の寝顔を眺めていたという。
そして、夕方に父が帰ってくるのを待ち、父にあまえたという。その父新田次郎は、そんな彼女を書斎に入れて、小学生の時から、自信を持たせようと、作文指導を高校生頃まで続けてくれたという。第一回目の今朝の内容は、そこまでだった。う~む。
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